私の波乱の人生、そしてその波乱が助けてくれた人生。 過去を振り返ってみると必ずプラスにつながっている人生。 今まで疑問に思ったこと、それに対して行ってきたこと、今まで人に教えたこと、教えられたこと。社会人経験が一年となり、今までの過去を履歴と残しておく価値があるようである。
私の波乱の人生は生まれつきのようである。 3歳になったと思えば日本語の読み書きを行い、時計を読み、4歳ともなればバイオリンを弾き始めた。 そんなころから人とは違うステップを既に踏み始めていた。
小学校へ入学。当然、幼稚園の時から習い事は多かったのであるが、その中でも「負担」が大きかったのがやはりバイオリンであった。学校から帰ってくれば直ぐにバイオリンの練習。楽譜の丸暗記はもちろん、ピアノやギターとは違う微妙な「指での音色」を体で身につける。 友人と遊ぶ暇も無く、毎日のようにいつも一人か親と一緒に練習を積み重ね週に一度のレッスンを受けていた。 時には小学校の先生の依頼により学校で演奏したこともあった。 これが原因で遊ぶ時間も無く親に抗議をしたことがある。それも理屈をつけてである。 漸く小学校3年位の時から遊ぶ時間が生まれたかと思えば次は珠算の教育。ずる休みをして竹刀で殴られたこともあった・・・検定も問題なく一発でクリアしていたのに。誰よりも早く進んでいたのに。 そして小学校高学年では塾通い。自分としてこのような教育を受けているのがなぜなのか分からなかった。幼稚園、そして小学校。いつも全てがトップ。ただ最下位であったのは国語の科目「字の綺麗さ」。
もっと自分で好きにさせて欲しいと何度思ったことか。勉強をしなくてもできている自分が怖かった位であったが親は不安を抱いていることも多かったようである。 小さなときの厳しい教育が必ずすばらしい人間を作り出すのであると。 そんな教育に拒否感を表すのか私は登校拒否となった。よく泣き騒いでは学校を休んだものである。 体の調子もおかしくなり、ごくまれに心臓の発作(というか痛みである)が起きることが頻繁になる。 病院で検査を受けても異常無し。心電図から血液検査、レントゲンまで撮っても全く異常無し。 精密検査を受けても異常がないことから困り果てたことがあった(これは社会人になるまで続いた)。 検査を受けても病気ではないことから「健康」で通っていたし保険の加入も全く問題が無かったのであるが、本当に心身共に健康であったかは疑問を持つことがある。
余談であるが小学校時代に何気なく自分で生活を立てていたことがある。小学校時代には自分で地下鉄などを使って用事があれば出向いたことがあれば市内を旅したことも多々ある。 食事の用意も自分で行っていたことがあった。 親の手料理に文句ばかりつけていたので、親も怒ったのか「1日500円食費代としてあげるから全部自分でやるんだよ。冷蔵庫は貸してあげるから。」「うん。それでいいよ。」そんなことが数週間、数ヶ月と続き、親もまさか本当にやれるとは思っていなかったのか見るに見かねて一日500円プランを辞退してきたということがあった。そして、こんなときから有言実行という自分の長所に気づき始めた。
中学受験が迫る。 親も自分も地元の公立中学が嫌いであった。 であれば私立に行くこともできた。小学校ではトップクラス、大手塾の模試などでも良い成績が出ていたため、トップの私立学校への進学は可能であった。 が、なぜか私はそれを拒否した。受験すら拒否したのである。 学校の先生、塾の先生、親にしてみれば「もったいない」の一言。 受かることを分かっていて受けないのは親にとってみては悔しいことだった。 近所の家庭は見栄を張って自分の子供が合格をしたときには、なぜか赤飯や祝い物を家に持ってきたことがある。自慢でもしたいのであろうか。 ストレートの道は開けている。 でも私はそのときに説明した。「どうしてもそのような学校には行きたくない。 エリートに流れ出ることが自分の夢ではない。 自分の手で自分の道を探ることができる可能性があるようにして欲しい。」 進路に困り果て、先に迷う日々が続く。 が、以前訪れた長野県で行われている山村留学を訪れたことがあり、そこで現地の学校に通う一年間(またはそれ以上)の「通年合宿」という事業を行っていることを知っていたので、中学校からは山村での生活となった。山の中での学校生活である。
山の中での生活。満天の星空。流れ星もつきもの。そんなところで他の生徒との集団生活を共にする(決して怪しい集団ではない)。ここでは自分のことは自分で行う。小学生から中学生までの男女が共に力を合わせて生活をする。 掃除から洗濯、食事の用意までを全てを自分達で行う。 風呂は薪で炊き、その薪さえも自分達で山から持ってくる。 斧、鉈、チェーンソーも使って作業をしていたころが懐かしく思える。 相談員という「補助役」の大人がいることはいるのであるが、基本的に自分達でやりたいことを決めてやりたいことをする。自治宝くじ支援事業である「のぼり窯」の建設を行い、その使用に当たっては一年に一回または二回自分達の手で(地元から取れる土も使用して)陶器の作成を行い完成した陶器は自分達で使用する(自分で作ったお椀で食べるご飯は格別)。自給自足ではないのであるが、農作業も行いわさび、しいたけ、野菜などを作ることもあった(現時点では米を作っているようである)。 自分達で世話している鶏の卵を食べる。時には鶏を殺して肉を食べる。さすがに目の前で動物を殺すという行為を見たときには「残虐なことをするな〜」と思ったことがある。教えてもらったこと。「それは目に見えないところで行われている。決して都会では見ることがないが、これが行われているんだよ。どう思う?」。 肉を買うとき、食べるときに刃物も見ることも無ければ血まみれの動物を見ることも無い。命の尊さ重要さ。生きていくために人間が行っていることで目に見えないことを目の当たりとすることで考えさせられることもあった。 ここからは余談であるが、電柱の枕木などで自分達の手(合宿の先輩含む)で建築した家屋に住んでいるのであるが、しっかりとした戸も鍵もなく、家の隅々に隙間があるのでムカデやマムシなどのヘビが侵入してくることもある(不思議なことに人が刺された、噛まれたという事故は私がいたときには発生しなかったのであるが。自然界では「襲わなければ襲われない」という原則がなりたつのか)。 ちなみに家屋に侵入してきたマムシを捕獲して食べたことがある。 そのまま皮を剥ぎ、焼いて食べたのであるが、これは忘れられない思い出の一つである。 そんなことからヘビの体は「本当は骨だらけ」ということも教えられなくても「実務経験」を通して学ぶことができたのである。 ここからまた本題。 楽園での生活も長くは続かなかった。 親は高校受験を心配し、これ以上楽園での生活は危険と判断。 中学3年となるときには私は都会に帰らざるをえなかった。 やることはやっていたのだが。 学校には行き、中学二年の二学期には実用英語技能検定試験3級も独学でクリアしていた。 学校での成績も悪くなく、山村生活でもありながら高校受験に対しては自主的に勉強をして既に準備ができていたのだが、親の「心配」をどうすることもできなくなり都会へ帰ることとなる。(これもまた余談であるが、楽しいことだけではなく、嫌な思い出も当然あった。その一つとして当時の教頭が生徒、私の目の前でタバコを堂々と吸っている姿を見て見るに見かねて私が堂々と「禁煙」と言ったら「ふざけるな。いいかげんにしろ。」と顔を強殴されたことがあった。 痛い思いをした反面、あの教頭のような大人にはなりたくないと思ったのも確かである)
中学三年生。 なぜか都会の学校になじめなかった。親も自分での学習を認めず(実用英語技能検定準2級も中学三年の一学期には独学でクリアなのだが)強制的に塾に行かせようとしたこともあり、学校生活での嫌気がさして(勉強生活はなぜか大好きであったのだが)登校拒否に陥ったという事例がある。 高校はどうするのか迷ったということも事実である。 しかし、それがまさか後のプラスにつながるとは思ってもいなかった。 5〜6月ころであろうか。 カナダの高等学校への留学ができるという(営利代行業者の広告記事)を新聞で発見した。 私が生まれる前には親もカナダで仕事の関係で滞在していたことがあり、 そんなきっかけでひょっとしたらカナダへ行けば道が開けるかもしれないと親に言われた。 カナダの学校は9月からなので、早ければ中学卒業前に9月からカナダに行くことも・・・ 当初、私は迷った。 英語も大して分からない自分が本当に現地の公立学校に直接入ってやっていけるのであろうか。 周りに誰もいない。 しかし、「何もわからない。何もできない」という状況に逆に自分が惹かれ中学卒業前に留学することを決意。 1994年8月26日に日本を出発した。
最初の一年間はビクトリア、ブリティッシュコロンビアという場所での生活となる。 地元の公立高校へ通うことになった。想像をしていなかったのであったが、当時でも高校での留学というものは珍しいことでもなかったようだ。多くの日本人及びその他外国人(私も含めて)が「国際留学生プログラム」というプログラムに入って勉強をした。 現地の生徒と同じことを学び、卒業も単位制度で卒業に必要な科目も全く同じである。 その中でかなりの生徒が成績や生活行動に問題がありキックアウトされるのを目にしていた。高校卒業しないで日本に帰国なんてことは決してあの当時でも珍しいことではなかった。彼ら、彼女らは今はどうしているのだろうと思う。 麻薬を勧められることも嫌なほど頻繁にあった。 しかし、そんな環境に負けずになぜか自らの力で24時間何をすれば自分に勝てるのか、現地の生徒に勝てるのかを考えた。 山村生活での自主的な行動を助けてくれていたのかもしれない。 最初の一年後は自分をもっと厳しい過酷な環境に置こうと決意。 ペンティクトン、ブリティッシュコロンビアという場所での生活を送り、高校もここで卒業した。 卒業するときまでには教科の飛び級はもちろん、学年までの飛び級を果すのに成功した。 自由主義、個人主義での学校生活。 しかし、これは簡単ではなかった。 脱落する危険もあれば、死のうと思うくらいつらい苦しい思いもした。 しかし、絶対に負けたくなかった。バカにされたくもなかった。自分が自分自身に対して。そして他の生徒から。 24時間勉強をし続けた自分はつまらない青春を送ったな〜と今になってみれば思うのであるが、理科系だけでなく、英語や社会の成績も現地の生徒(=ネイティブ)を知らぬ間に抜いていた自分を振り返ると、それなりの「成果」を目にとって見ることができるのがうれしい。 TOEFLも無事560点を取得、大学への入学許可も次から次へと下りた。 しかし、こんなことは自分だからできたのであろうと思う。 中学三年から何も無いゼロの出発から同じことをする生徒を見たことも無ければ聞いたことも無い。 学校中で私の名前が良い意味で知れ渡っていることもあったので、それなりの成果を残せたことは間違いない。
(余談であるが、自由であり個人のペースで物事を進める海外の学校教育が悪いわけではないが、上下の差が非常に激しい現実も見た。 日本であれば校長が印を押せば卒業となるのだが、とかく海外ではそんなわけにはいかない。点数を取らなければ卒業はできないのである。 学年進級も無理な生徒が多数いるのを見ている。 小学校、中学校での留年も茶飯事である。 できる人間はできるが、できない人間は「完全に取り残される」。 日本の教育も欧米化しつつあるが、こんな現象が起きているのも「できない人間は完全に取り残される」というシステムを見ていない「平和ボケ」ではないか。)
無事に大学に進級。 カナダでは名門のマックギル大学である。 大学での成績はトップクラス(トップ5%での表彰も受ける)。 だからこそ大学生活では満足がなぜかできなかった。 何か物足りない。 友人に言わせて見れば「そんなに良い成績を取っているのならそのままこの調子でずっとここにいればいいじゃん」ということが多かったが、私からして見れば100点を取り続けていることに非常に違和感を抱き、「自分の行っていることが意味のあることか」ということを問いただすことが多くなった。 人に言われたこと、命令されたことを忠実に行い、言われたことだけをやる良い子にしていることは全く問題なかったのだが、そのような教育システムへの疑問をそのまま残して置くには行かなかった。 大学生活およそ1.5年後には大学の教科を取るのをストップしてしまった。 かといって、勉強が大好きな私は勉強をストップしたわけではなかった。 以前から興味があったフランス語、スペイン語を学んだこともあれば飛行機の操縦を学んだ。 いずれにしても、いろいろなことがあったが最後に通った大学では経済学を学んだのであるが、既に独学で知っていることばかりであったので、勉強にも大して時間は必要なく、成績は学校でトップであった。そんな生活に終止符を打つ理由がいくつかあった。まず健康面である。 とりわけカナダでは病気や怪我すると見てもらうまでに数ヶ月の日を要する。 帰国する年の一月にインフルエンザのような病気にかかったのだが、当然のこと診てもらえるはずがない。 一ヶ月間、熱とだるさ、下痢に咳が止まらなかった。 自然治療を望むのであればぜひカナダに渡航するべきであるが、日本で育った私には理解できないことであった。 理解できないことであるし、受け入れるべきことでもないのであろう。 そして飲食面。 お茶もなければ肉か野菜だけの生活も7年で限界と判断。 日本に将来帰国することも当然と考えていた(カナダでは職はなく、コネで職につけなければほとんどチャンスはゼロである。 日本ではバイト感覚でできる仕事も経験ゼロではカナダでは難しい。 多くの人が只働きに精を出している姿は見るに見ていられない。 逆に経験が豊富でボスを抜くような能力を持っている人も仕事探しには苦戦する。 ボスは自分の配下に置こうとするため、自分を抜くような人間は採用しない。 さらにトップは何億、何兆円という資産を所有しているとのニュースが流れることもあり、日本でそのようなニュースを聞けば「すごいなあ」との平和ボケで終わるが、海外での上下の差を知っている人間にとってはただ事ではない。 日本ではここまで仕事の環境がひどくはない。ある意味、日本で仕事ができることは幸せと考えたほうが良いと思う) ので日本に帰国するのであればなるべく早いうちが良いと判断。 大学では3年学習し、あと1年であるが、「万が一続けることを決心すればいつでも途中から続けることが可能」という制度もある。 総合的に判断をして日本に帰国。そして社会人になる。
日本が嫌で日本の脱出も考えていた自分がたどり着いた最後のデスティネーションは日本であった(こんな日本人が私に限らず多くいるようだ)。 仕事も探し始め、何とか給料もまあまあのIT関係の仕事に就くことができた。 仕事と併用して自分の好きな時間、好きなように勉強をして資格取得に励んでいる。 毎月2つのペースで取得している。 当然IT関係の資格も含まれる。 自分から動くこと、自分から勉強することに嬉しさを感じる日々が続いている。 自主性を大切にし、幅広い知識を習得することを心がけている。 そして自分でやっていてわかる。 自分から動いて覚えたものは忘れることがないのだと。
世界はロボット社会に見える。 教育から就職まで。 人間がロボット化されているようである。 既に理想となる道ができており、その道の通り、理想の通りに進めば良いのである。 ロボットのようになれば良いのである。 しかし残念ながらとかくそのようなロボット人間はコミュニケーションスキルに欠けることが多いようである。 自分の主張もできなければ言われたままにしか行動ができない。 それが良いのかもしれない。 しかし、そんな社会のロボットになるのを拒む人も多くなってきているという。 私もその一人なのかもしれない。 人間としての自主性そして個性の大切さを忘れない社会を築きたい。